昭和52年04月29日 朝の御理解
御理解 第52節
「信心するものは驚いてはならぬ、これから後、どの様な大きなことが出来て来ても、少しも驚く事はならぬぞ。」
元気な心で信心せよと、元気な心で信心をさしてもらう。こうと決心した事は、それを貫かせてもらう、それが元気な心ではないのか、何遍も決心のし直しばかりするようなことでは、本当は元気な心ではいえない。元気な心というのは、当然こう決心をする。例えば朝参りなら朝参りを、見事こう決心をする。それを貫く心が元気な心です。ですからでない例えば決心であったりするならば、それは本当な元気な心ではなくて、いわゆる死んだ元気ということになります。
実の無い元気です、 本当にあのう元気な心でもういうが死んだ元気な人が多いですね。やはりひとつの根性がなからにゃいけません。ある人が店を開きたい、お店を開きたいというて願うておる。所が信心が出来ない、はぁらもう私は今度お店を開いておかげ頂いたら、もう本当に見よって下さいといわんばかりに、とにかくあのう大きな御用も頂きたい。したが嘘ではない、決心しておるそれを。
2、3日前からその事をお願いさしてもらいよったら店が出来ておる、丁度昔のここの国道線の前の、アスファルトのない昔の様な感じで、家、店が出来て商品なんかもこう並べてある。所がそのうアスファルトを敷いてないですから、もう風が吹いてくるたんべんにもう店に埃がいっぱい入りよる、自動車が通るたんびにばぁっと、もうちょうど昔の椛目の様なこと、今廊下を拭いたかと思うたらもう、字の書かれるごと廊下が真っ白うなりょうりましたからね、もう何回も何回も朝参りをする。
そんときにはほんなこっちゃろごたるけれども、すぐやめてしまう。だから私しが、昨日も参ってきとりましたから申しました事でしたけれどね。例えて言うならば、ならここに道が出来ても店を建てても、この道を例えばアスファルトにするのはお上だと私はいう。自分ではどうにも出来ない。お上がしてくれるんだ。だから、ここの所を促進するためにはです、一生懸命やはり運動しなければいけない。ここの国道でもねやっぱ運動を上手にやった所は早くアスファルトになったでしょう。
だから神様にそのやはり運動をしかけなきゃいけない。本気で朝参りすると言うたなら、本気で朝参りをしなければいけない。決してその言いよる事は嘘ではない、けれどもその元気な心というのが本当なもんじゃないから貫ききらん。これでは店は開いても、埃りのいうなら、埃がかかっちゃならない商品を、商うのですから。もうそれはとにかくこの道にアスファルトを敷いてもらわにゃならない。
風のふくたんべんに、自動車が通るたんびに、こんな埃が入って来る。店に入って来たんではいけない、そこでなら道を作ってもらう為にゃお上に対する、言うならば運動を起こさなきゃいけない。国道線であればお国がここにアサファルトを敷く様に。その中でもやはり早くして貰いたいと思うなら、促進運動をしなければならない。だから神様のおかげを本当に、もう道が出来たら後はアサファルトを敷くばかりということになっておって、ならその精神たるやはねぇ。
ここに店を作ってどんどん繁盛のおかげさえ頂きゃどげな御用でもさして貰おうと、成程けなげな心掛けだから神様が受けて下さるだけだと。神様はそげな事で受けて下さる神様じゃない。本当に信心が出来て本当に神様のおかげで繁盛させて貰う。ただ思い方が精神がそうだからというて、おかげ下さるのじゃない。はぁ記念祭にゃこげなおかげを頂きたい、おかげを頂きたいばっかり言うとったんではね、それ前に矢張りそういう御用のひとつも出来る様な、信心修行がでけていかなければおかげにならん。なりません。
だから私共はひとつ本当な元気な心、決心はするけどそれがすぐ崩れる、神様が元気な心で信心せよということは、その決心が崩れない心こそが元気な心だという。元気な心で信心するからおかげが受けられる。今朝方私しそのお夢を頂いておったのが、まぁ前後はっきりしませんけども、頂いておるところが、なんか店の名前を付けるかなか、どういうんでしょうか。
その2鶴「二つの鶴」と書いてある。それで私しがあぁそりゃ不覚じゃったっち言いよる所を頂いた。二鶴と書いてそれを「ふかく」ともようは読めます、鶴という字、そりゃぁふかくじゃった、「そりゃ参画にしなけりゃいかんばい」ってまた言いよる所でした。ここではあのう鶴のお知らせを、まぁ信奉者の皆さんというふうにふれてね、ここではいつもこう松をバックに、いわゆる松の根方に亀がここにドンと坐っている。
私の事その松の根方に座っておる、そのう亀のもとに鶴が沢山、亀のもとへ慕う様におまいりしておる。そこでやはり鶴亀の舞い遊ぶようなおかげ、と御理解を頂いたことがあります。だからそのう二鶴ではなくて、それは不覚だったと、不覚だったいうことは、はぁそりゃしもうたということね。そりゃ残念だった、いわゆる不覚の一番である、不覚じゃいかん参画にならなければ、さんということは参るという事。
鶴が神のもとに参って来る、どんどん飛んでくる、じゃからなければ鶴亀が舞遊ぶようなおかげにならんと決めたらです、それをひとつ欠けてもです、あぁそれは不覚じゃったということになるのです。せっかく神様がおかげを下さろうとしておっても、いつまでたってもならアスファルトに道を敷いて貰えない様な事に、これではもう店も開けられん。それをです私は元気な心だと思う、そこでんならそういう元気な心で信心をさせてもらい、決心をする、それを貫くそれが元気な心だという。
どうにかいっちょうどうにかせにゃでけん、やっぱりそりゃぁ決心をするだけれども。元気な心である様だけれども、何かねちょっと突き当たると、それが不覚にもいやくずれてしまう。その不覚にも崩れてしまうことが、いわば貫く事が出来ないのですから、もうおかげが傍に見えておっても、おかげを頂く事は出来ない。その精神は、神様がおかげさえ下さりゃどげな御用でんさしてもらう、と思うとるからそれは素晴らしい。
嘘でもない本当な事でしょうけれども、そういう心といわゆる不可くではない参画の心と、いわゆる元気な心、しぃら元気な心じゃない。本当な元気な心貫かせてもらう、私しは信心が出来て頂いたおかげでなければならない。そういう貫く心が元気な心、その元気な心に頂かれるのが度胸だと思うです。信心度胸です、自分がしだごだの、例えば割り切った信心しよってから、そんな度胸が出来る筈ありません愈々の時に。
信心するものは驚いてはならぬと、これから先どんな事が起って来てもとこう教えておられる。なら驚かんで済むようにと、いうならば先ず今日はいま、前に聞いて頂いたように、元気な心で信心をさして貰う。元気な心とは貫く心、いうならば亀のもとに、それこそ鶴が飛んでくるように、そのお参りをする事にいうならば、亀を慕うてとか動燃心を燃やして亀のもとにもう楽しゅう有難う飛んでくる。そういう参画になったときにです、初めて合楽示現活動に参画する資格ができるという事ではないでしょうか。
参画ということは、ただそれにそういう運動に加ててもらうということではない。あずからせて頂くという事なんです参画ということは。字引にそう書いてあります。参画とは私しはただ加ててもらうという事が参画かと思ったらそうじゃない。参画とはそういう運動にあずからせて下さいと願う心なんです。おかげさえ頂きゃどげな御用でも参画でもさしてもらうと、例えば言うておってもそれが中途半端な信心では、本当の参画はだから出来ない事になる。本当のおかげにもならない事になる。
そこで元気な心を出して決心しなければいけない、その決心がややもすると崩れそうにもなるようなときにです、出てくる心が元気な心。ならそういう元気な心で信心させて頂いておる眼目が、目当てが素晴らしい。そこにいうならば、天地のリズムの響いてくる、聴こえて来る様になる。だから神のもとへ通うって来る事が楽しゅうして、合楽だからそげん辛抱せんでも、いうならば楽に楽しゅうお参り頂けて来る様になる。
そういう信心からでなからなければ、私しは、日は、信心の度胸は出来ないというふうに聞いて頂いた。驚かんで度胸があるどっこいと受けれるその度胸がです、驚かんで済むのです。少しも驚く事はならんぞと。皆さんが今度の、末永先生の南米布教のことについては、皆さんがようくよく四人で決心が出来られなさったと、皆んながそう言うて下さいます。挨拶にして下さる人達が。特に他所の先生方の場合なんかもう、本当にそれを言うて下さる。
よう親子四人もでその、そういう決心ができられましたな、と言うて。やるもんもやるもん、行くもんも行くもんというふうに言われます。けれども末永先生自身がです、今申しました様な信心が10年間みっちりでけておるから、おかげになる。合楽理念をひっさげて行くなら、どこへ行ったって神様が親子四人、いうならば見殺しになさる様な事はないと、確信してそのうえに、よし例えば干乾しになるときににゃもう干乾しになろうと、死んだ気でこれが度胸です。
私ゃ昨日驚きました、昨日おかげを頂いて、昨日夜8時にサンパウロに到着しとるはずです。昨日飛行機で見送り致しました。竹内和憲さんが昨日夕方帰って参りました。会社の御用であちらへ出張しとった。それでもうあちらでも東京でも沢山な見送りだったそうで。東京支部の方達が皆んな出て来とった。ところがその驚いたことには、手荷物が20キロオーバーしとったげな。それでお金を20万円出さにゃならんげな。
そして末永先生が、そのあのしろいきれに、御神璽と御霊璽をこうしてあれを解いて見せなきゃいけない。けどもこうやって南米布教に行っているので。こうして私しもたまがったことは、あちらへ行ってからすぐ、遷座祭をしなけりゃならん。その玉串の榊までもっていきよる。けど久冨先生が、あたいが切ってやりましたって。はぁそればってん本人もすぐはそれで、遷座祭行ったその場でお祭りが出来るように、もう何からかにまで準備して行ったという、あたしは知らなかった、後から聞きました。
ですからこれは御神璽と御霊璽ですと言ったら調べる人がですね、もうそんなら開かんでいいです。そしてお荷物の一番上にあげて下さり。そしてその20キロのオーバーもねまぁいうなら大目に見てあげます。向うでもまた調べられるときにゃこう言って下さいという印まで頂いて、あのう飛行機に乗らせて頂いたということです。度胸がなからにゃ出来るこっちゃないです。神様をお供にしておるから、もうそれこそほんとにそれこそ。神馬に跨って蹴散らす思いでというお知らせを頂いたですもんね。
その蹴散らす思いで行っておるという、そこにですそういう、例えば20キロもオーバー、自分な知らんはずないですけれども度胸です。神様のお供をしていってるのだから。行けない筈はない、もうそれからあちらでまた、沢山いろいろ御餞別やら頂いて、行きがけに何時じゃろかといったら。彼が時計をもたなかった。だけぇあの皆さんの中から、ほんなら僕のを持って行きなさい、と言うて時計まで持たしてくれたという話を聞かしてもらいました。
あれやらこれやら人間心で心配、不安すことはいらん、もうその話を聞けばもうそのうおかげというものが。あのう子供たちもあげな具合が悪かった、公子さん具合が悪かったけれどもいよいよ立つ頃にはもう、3日それこそ子供たちも皆んなが元気になってまぁ出発したということです。いかにも神様がぎりぎりまで修行をさせなさる。ぎりぎりまでいうならば、お商売をするなら資本がいる様に、少しでも多くの資本を持たせてやろうとする働きが、そこに感じられるじゃないですか。
本当にあのうそれこそこれから先どの様なことが起って来ても、いや起って来る事をもう覚悟して、けれどもその度胸で行く、それこそ神馬に跨って、それこそ蹴散らしていくごたる勢いというものが、元気な心をもって常日頃信心の稽古をしておるから、それが出来とる。私しが南米布教と頂いてから、早速本部の方でいろんな運動がおこった、そして始まりの間は、サンパウロの高橋という先生の所に話があった。
ところがもうそれこそ、あのうその当時の教務部長であった、谷口という先生のもうそれはもう本当に、自分が南米の方を回って来られたわけですね。そしてそのうもういけないとこ、悪かとこばぁっかりでとても、布教谷口先生の方が二の足を踏んで御座る。そしてあのう本部の方で、全部、せんしょうから部長まで全部代ってしまいました。そして今度あのう新たに起ったのが、あのビリグイのことですよ。そのことビリグイなんかもうてんでもう、お話ならない事だったんです。
とても誰でも行って出来るとこじゃないというふうに、谷口先生は見て来てそう言っとられました。ところがあちらの方から、いろんな連絡があってなら本部から、誰か派遣をしよう、前の時にハワイ布教と南米布教の願い出があっとったから。私しども行ったら掃除の塗版が消さんなりそんなりそこにあったです。南米布教末永、ハワイ布教久冨、という塗版に書いたままでした。もうそれこそもう半年からなるとでしょうけどね。それでもまぁ海外布教と言った様なことには、まあ閑散なんでしょうね。
そしていよいよ今度なら、そのう派遣ということであったからこっちもまぁ受けずにしとりまして、まぁ向う任せにしとって、いろいろ準備も進んで、話をいろいろ準備を始めていっておるところへ。沢山御金やら要る事が解ったんです。そしたら手のひらを返すように本部が、あのう派遣という事を言わなくなったんです。そして大変気の毒だけれども、気の毒だけれどもばっかり言うてからねぇ。
まぁそれこそあのう、もうお金がいるならいる、いくら掛ったっちゃかまわんというような、こちらは腹で参りましてから、今度出来ました事ですけれどもね。それの芯であるところの、末永先生がです。常日頃、今日皆さんに聞いて頂いた様に、元気な心で信心をし貫いておった。元気な心とは決死をする。その決心がいる、時には祈らなん事もあるけれども、それを信心を貫き通した。
そこからそれが本当、今日は元気な心だと聞いて頂いた。その元気な心で信心するから、度胸が出来るんだということです。そこにまぁ傍若無人な考え方かも知れません。とにかく飛行機の荷、20キロも荷物がオーバーする様な荷物を持っていきょる。送るしこ送ったけれども、これだけは手に持っていかんならんという物が、そうなっている。それでもそれこそ蹴散らして行く様な勢いで行くところに、それこそ、それこそ神様を神様と立て貫かせて下さった。
もうほんとに荷物の一番上に、置いて下さいっち、きのうそん言われち聞いてから感動しました。本当に生きた神様だなぁと思いました。そして20万も払わんならんそれを免除にして。立つと向こうでの書つけをくれるた言う事なんです。本当に行くが行くまで修行さしてもろうて、家内子供たちが具合が悪い、このまま立てるだろうかと、前の晩なんか大変公子さんひどかった。それが神様が最後の最後まで、試されたと言った様な感じですけれども、それを見事に蹴散らす様な勢いでおかげを頂いた。
これから先またいろんな山もありましょう。節もありましょうけれども、その勢いで私ゃ少しも驚かんで済む、生き方を恐らく身に着けておりますから、その生き方でいきゃあ愈々安心だという気が致します。信心するもの、驚いてはならぬ、これから先どの様な事が起って来ても、驚いてはならぬぞと。あぁもう神様が有難い神様をいただいとるから、驚かんで済むところが実際いその場になって慌てる。それが常日頃決心はしとっても、それをしだごだにする、こうときめておっても貫ききらん。
それではいわば元気な心とは言えない。元気な心で信心するという事がそのまま信心の度胸に繋がる。度胸一つでいうならば、南米布教でも出らして頂いた。末永先生の事をまぁ聞いてもらって今日の御理解にさせて頂きます。どうぞ皆さん元気な心で信心せにゃいけません。それは貫く上に貫くという事それには必ず度胸、信心の度胸がとものうて来るということです。やはり驚かんで済むおかげを頂かれるということです。
どうぞ。